2018年5月21日月曜日

02_同調しない勇気

君は心と人間性をもった1個の人格になるのか、それとも<意図的な力>が要求することは何でもするのか。ベン・ケノービが「フォースが共にあらんことを」と言うとき、彼は生命の力のことを言っているのであって、政治的意図のことを言っているのではない。 ⇨ ジョーゼフ・キャンベル



現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。

もし私がみんなと同じになり、ほかの人と違った思想や感情を持たず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ。

独裁体制は人々を集団に同調させるために威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる。たしかにこの二つのシステムの間には大きな違いがある。民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人がまったくいないわけではない。一方全体主義体制にあっては、服従を拒むのはごく少数の特別な英雄とか殉教者だけだろう。しかし、こうした違いにかかわらず、民主主義社会においても、ほとんどすべての人が集団に同調している。何故かというと、

如何にして合一感を得るかという問いには、どうしても何らかの答えが必要なのであり、ほかに良い方法がないとなると、集団への同調による合一が、いちばん良いということになるのだ

孤立したくないという欲求がいかに強いかが理解できれば、ほかの人と異なることの恐怖、群れから僅かにでも離れる恐怖の大きさが理解できるだろう。しばしば「集団に同調しないことの恐怖は、同調しないと実際に危ない目にあうかもしれないという恐怖なのだ」ともっともらしく説明される。だが実際には、少なくとも西洋の民主主義社会では、人々は強制されて同調しているのではなく、自ら欲して同調しているのである。

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求にすら気づいていない。誰もがこんな幻想を抱いている、

私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それは単なる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、自分の意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人と違うのだと思いたがるが、そうした欲求はごく些細な違いで満たされる。

ハンドバックやセーターのイニシャルとか、銀行員の名札とか、共和党でなく民主党支持だとかといったことが、自分はほかの人と違うのだという意思表示になる。「これはほかとちがいます」といった広告のコピーは、人と違いたいという悲痛な欲求をよく物語っている。実際はほとんど違わないのだが

違いをどんどん無くしてゆこうというこの傾向は、先進工業国で発達しているような、平等の概念やその経験と密接な関係がある。

現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った人間の平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。それは、同じ仕事をし、同じ趣味を持ち、同じ新聞を読み、同じ感情や考えを持つといった、雑多なものを切り捨てた同一性である。
⇒ エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店より

2018年5月17日木曜日

01_精神的貧困

魂はどうなるのですか?」
魂って・・・お前何言ってんの」。


現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人々は、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかれない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することが出来ないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐそれを他人と交換したりして、孤独を紛らわそうとする。

現代人は、オルダス・ハクスリーが「素晴らしき世界」で描いているような人間像に近い。旨いものをたっぷりと食べ、きれいな服を着て、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく、ハクスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに導かれて生きている。

個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に伸ばすな」あるいは最高のスローガン「昨日は誰もが幸福だ」。

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込むみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ大きな酒瓶大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。今や私たちのキャラクターは、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。

必然的に、愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。ロボットは愛することが出来ない。現代人は「商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む。愛の、特にこのような疎外された構造を持つ結婚の、もっとも重要な現れのひとつが「チーム」という観点である。幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は滞りなく役目を果たす労働者という考えと大して違わない

そうしたチームは「適当に独立して」おり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。同じようにカウンセラーは言う。夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理を誉めなくてはいけない。一方妻の方は、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときは優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときは心を込めて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。

こうした関係を続けていると、二人の間がぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言い合うだけの関係にとどまる。

愛と結婚に関するこうした考え方では、耐え難い孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは愛のなかに、ついに孤独感からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の表現だと誤解されている

第一次大戦後の数年間は、性的満足が愛情関係の土台であるという考えが流行した。不幸な結婚の原因は「性的適応」がなされなかったことであり、この誤りを「治療」するために多くの本が出版された。正しい「技術」を身につけることにより、幸福と愛が生まれると暗黙のうちに、あるいは公然と約束したのである。

こうした発想の底にあるのは、愛は性的欲求から生まれる子どもであり、二人の人間が「技術」を身につけさえすれば、自然に二人は愛し合うようになる、という考え方だ。こうした考えは、当時の一般的な幻想、すなわち、正しい技術を用いさえすれば、工業生産のみならず人間全般の問題も解決できる、という思い込みと一致していた。彼らは「逆は必ずしも真ならず」ということを考えなかったのである。

このような「精神的流行」は当時の人々がフロイトの影響下にあったことを物語っている。フロイトは、愛は基本的に性的現象であり、性器的な愛がもっとも強い満足を与えるから、性的な愛が幸福の原型だと確信できた人は、性的な関係を求め、性的な愛を人生の中心に据えるようになると考えた。

フロイトは兄弟愛(人類愛)についても、性的本能の「目的を抑制された」衝動が変化したものだと考えた。フロイトの理論ではどんな形の愛であっても、本来は純粋に「性愛」であり、それは無意識の中にあって、永遠に「官能的な愛」なのである。

神秘体験の本質にある、一人あるいは複数の人間との強力な融合体験とか一体感について、フロイトはどちらかというと、病的な現象⇨ 幼児期の「無限のナルシシズム」状態への退行と解釈している。フロイトにとっては、共依存的な愛と成熟した愛との間に違いはない。恋に落ちるということは、ほとんど異常であり、必ず現実が見えなくなり、強迫的であり、幼児期の愛の対象が転移したというものだ。

成熟の最高の達成としての愛は、フロイトにとっては研究の対象にならなかった。彼にとって、そのようなものは存在しないと考えられていたからだ。
⇨ エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊國屋書店より

2018年4月29日日曜日

39_四次元時空連続体:内向的思考型

ナショナルジオグラフィックch「ジーニアス・世紀の天才アインシュタイン」より
ユング「私が払うよ。4フランか・・・、魔法の数字だ」。
アインシュタイン「君は魔法なんてものは、信じてないんだろ?」
ユング「魔法はよく分からないが、4はとても特別な数字だ」。
アインシュタイン「本気で言ってるのか?」
ユング「もちろんだ。4は基本だよ。四大元素-地・風・火・水、方位磁石の4極、4つの心理機能-思考・感情・感覚それに直観。・・・誰にも分からない4次元さえ、存在するかもしれないぞ(笑)」。

アインシュタイン「フランク教授!よくお越しくださいました。でもまず、レコードの上のクモを見てください」。
「ああ、稲妻クサグモじゃないか。そうだろ?」
アインシュタイン「よくご存じですね。では円周に対するレコードの直径の割合は?」「3.14だ」。
アインシュタイン「クモにとっては違います。相対性理論によると、円周は回転方向で短いんですよ」。
「どういうことか、よく分からないな」。
アインシュタイン「このクモのおかげで、一般相対性理論を説明できます。三次元形状を使っては出来ないんです。ユング博士のおかげです。ミンコフスキーは正しかった。四次元がいります。素晴らしいと思いませんか?」

彼が社会に与えるのは、新しい見解であって新しい事実ではない。これは問題提起や理論を産み出し、展望や洞察を開くが、既成事実には冷淡な態度を示す。事実は根拠を示すための材料にすぎず、事実そのものを求めているからではないからである。➯(既成事実は真実を示すための材料にはなる)

彼の目的は内なる目に見える<朦朧(もうろう)としたイメージ>を発展させ、具体的なものとして現すことである。これが目指すのは現実の再構成ではなく、事実を材料として骨組みであるイメージを補強し、目に見える形にすることである

彼の創造力が真価を発揮するのは、既成事実に無い抽象的理念を生み出し、しかもその理念が外的な事実により普遍妥当なものとして証明されたときである
➯ C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より

2018年4月26日木曜日

38_加速度と重力:内向的思考型


アインシュタイン「もっと悪いことに、ザルツブルグでの会議で講演を頼まれた・・・。断るつもりです」
ユングでも大勢の人が、がっかりするだろう」。
アインシュタイン「講演はいやなんです。取り乱してしまう・・・」。
ユング患者を診ていてわかったんだ。話すことへの恐怖心に表面上悩まされているとしよう。だがもっと興味深いものが無意識の中には潜んでいる」。
アインシュタイン「失礼ながら、ぼくは分析されたくありません。釈然としないままがいいんです」。
ユング失礼。招いたのは分析ではなく、お喋りのためだよ。だが友人としてひとこと言わせてくれないか?人間というのは恐怖を避けられない。克服するには、向き合って乗り越えるしかないんだ。燃え盛る炎を通り抜けないと」。
ナショナルジオグラフィックch「ジーニアス・世紀の天才アインシュタイン」より

エレベーターで下に降りている時、物はみな重さをなくして浮かんでいるように感じる。逆に、上に昇っている時は足の裏に自分の体重を感じる。そうか、解ったぞ!加速度と重力は同じものなんだ!相対性理論の完成に欠けていたものはこれだ


彼は可能性を際限なく追及するため、あらゆる懸念に常に取りつかれ、考えが明確になるほど、現実世界のどこへ、どのように当てはめればよいか途方に暮れる
彼は自分にとって自明なことが、必ずしも他人にとって自明とは限らないことを、なかなか認めることが出来ない。彼の文体は懸念からくる、あらゆる補足・限定・注意・疑問によって難解なものになっている

彼は他人に対して、あまり語らなくなるか、自分を理解しない人々のことが頭に浮かび、彼らの救いがたい無知を証拠立てるものを集め始める。このような理由もあって、たまたま理解を示してもらうような人が現れると、その人のことを過大評価してしまうのである。
➯ C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より

2018年4月20日金曜日

05_永遠性の仮面


エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店より
真に宗教的な人は、何かを願って祈ったりしないし、神に対して一切何も求めない。子供が父や母を愛するように神を愛したりしない。

そういう人は、自分の限界を知る洞察力を身につけており、自分が神について何も知らないことを知っている

そのような人にとって、神は人間が熱望するものすべて、すなわち精神世界、愛、真実、正義といったものを表現していた象徴となる。

そういう人は「神が表象するさまざまな原理」を信仰する。(神の現れと感じられる現象のすべてを愛する)。

すなわち真理について思索し、身をもって愛と正義を生きる。彼はこう考える。

人生は、自分の人間として能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだ

彼は神について何も語らないし、その名を口にすることもない。したがって、

神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである
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クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」平河出版社より
人生では利己心こそが恐怖の原因となっています。この私という感覚や私の関心、私の幸せ、私の成功、私の失敗、私の業績、私はこうである、私は違う等々。

このような、恐怖や苦悩、憂鬱、苦痛、不安、熱望、悲しみを伴うすべての自己中心的な観察は、

神の名を口にしようが祈りや信仰の名目によろうが、みな利己心なのです。それは利己心にほかなりません。そして利己心がある限り恐怖や、恐怖のあらゆる結果が生ずるに違いないのです

そこで再び尋ねます。利己心が猛威をふるうような、こんな世界で生きてゆくことは、果たして可能なのか、と。

全体主義であれ資本主義であれ、この世界では利己心が際立っています。ヒエラルキーに基づいた宗教社会でも、利己心が大手を振っています。彼らは恐怖を永続させます。彼らは地球の平和を口にしても、本気でそう言っているわけではないのです

何故なら、力や地位や達成などへの欲望を抱えた利己心は、実に世界ばかりか、私たち自身の脳の素晴らしい力までも破壊してしまう要因となっているのですから。

2018年4月18日水曜日

04_神のイメージ

神はさらに、正義・真理・愛という原理の象徴となった。神こそが真理であり、正義である。この段階において神は、人間であること、男であること、女であることをやめた。さまざま現象の背後にある統一原理の象徴となり、人間の内にある種子から育つ花を意味するものになった。

神はモーゼに「私はありつつある」ものだと告げる。「ありつつある」とは、神が有限ではなく、人間でも「存在」でもないことを意味する。いかなる像もつくってはならない、神の名を唱えてはならないという偶像崇拝の禁止は、神は、子どもを救いにくる父親のような存在ではあり得ない、という戒めなのである。この思想はさらに、

神に<肯定的属性を与えない>という原理にまで発達する。神は賢いとか強いとか、善いとかいうことは、やはり神が<人間的>であるということを暗示するからである。こうした一神教の考え方を突き詰めてゆくと、神は、<潜在的にありうるもの><名前を持たない唯一つのなにか><表現できない不可知>となる

成熟したイメージの神は、あらゆる現象世界の背後にある統一や、あらゆる存在の根拠を象徴するものであり、真実・愛・正義そのものである。しかし、アブラハムの段階の神は、父親として愛されることもあれば、恐れられることもあり、ときには罪を許すが、ときには怒りが優先することもある。この段階の神を信じるなら、


私は子どもである。私は、全知全能への自閉的願望から抜け出せない。私はまだ、人間としての限界や、自分が無知無力であるということを自覚するための洞察力を身につけていない

私は子どもみたいに言い張る。私を救い、見守り、罰する父親がいるはずだ。その父親は、私が従順であれば愛し、讃えればご機嫌になり、言うことを聞かないと怒る

あきらかにほとんどの人は、その人格の発達において、この幼児的な段階を脱していない。したがって、

ほとんどの人にとって、神を信仰することは、助けてくれる父親を信じるという子供っぽい幻想なのである

このような宗教概念は、何人かの人類の偉大な師たちや、ごく少数の人々によって克服されたにもかかわらず、いまだに宗教の主流をなしている。

2018年4月16日月曜日

03_神への愛と神の私への愛

神への愛の特徴は、その宗教の父権的要素と母権的要素のそれぞれの比重によって決まる。父権的な側面によって、「私は神を父親のように愛する」と考える人は、
➡ 「神は正しく、厳格で、罰や褒美を与える者であり、最後には私をお気に入りの息子として選ぶだろう、と。神がアブラハム・イスラエルを選び、イサクがヤコブを選び、神がお気に入りの国を選んだように」とイメージしている。

宗教の母権的な側面によって、「私は神を、ひたすら抱擁する母親のように愛する」と考える人は、
➡ 「私は神の愛を信じる。たとえ私が貧乏だろうと、無力だろうと、罪人だろうと、神=母親は私を愛し、他の子供たちより私を<えこひいき>することはないだろう。私の身に何が起ころうと、私を救ってくれ、許してくれるだろう」とイメージしている。

いうまでもなく、私の神への愛と神の私への愛とは、切り離すことができない。
➡ もし神が父親なら、神は私を息子のように愛し、私は神を父親のように愛する。
➡ もし神が母親なら、私の神への愛も、神の私への愛も、母親と子供の間の愛のようになる。母親と考えるか父親と考えるかは、この愛の性質を決定する要素の一つにすぎない。

もう一つの要素は、その人個人の神の概念が、どれだけ成熟しているかということである。神への愛の成熟過程は、おもに父権的な宗教の発達のなかに跡付けることができる。この発達の最初には、横暴で嫉妬深い神がいた。

この神は自分の作った人間を所有物と見なしている。この段階の宗教では、人間が知恵の実を食べて完全にならないようにと、楽園から人間を追放し、お気に入りの息子(ノアの箱舟のノア)以外は「全員気に入らない」という理由で亡ぼそうとしたり、服従の証を求めて、アブラハムに最愛の息子イサクを殺すように命じたりする。

しかし、同時に次の段階で神は、ノアと契約を結び、二度と人類を滅亡させないと約束し、この契約により、正義という自分の主義にも縛られ、好き勝手が出来なくなる。そのため、少なくとも正しい人が10人いたらソドムを救うべきという、アブラハムの要求にも従わざるをえなくなる。こうして神は、

⇨ 横暴な部族長から、愛する父親、そして自分の決めた規則を自らにも課す父親へと進化した。